<?xml version="1.0" encoding="Shift_JIS"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
   <title>社長日記</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/" />
   <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://www.limited1.jp/itoyu/atom.xml" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2011:/itoyu//5</id>
   <updated>2011-07-27T04:52:34Z</updated>
   <subtitle>代表の伊藤が、これまでメルマガ「広告の達人」の中で、好奇心のままに書き綴った、時事問題・政治・ＩＴ・旅行・スポーツ・ビジネスなどのエッセーをまとめています</subtitle>
   <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type 3.33-ja</generator>

<entry>
   <title>現地でみたベトナム経済のパワー</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000379.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2011:/itoyu//5.379</id>
   
   <published>2011-07-27T04:42:41Z</published>
   <updated>2011-07-27T04:52:34Z</updated>
   
   <summary>戦争のイメージだったベトナム 正月にベトナムに行ってきました。 南部のホーチミン...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[<h3>戦争のイメージだったベトナム</h3>


正月にベトナムに行ってきました。
南部のホーチミン（旧サイゴン）です。

ベトナムというと、私の中では、＜ベトナム戦争＞のイメージがとても強くありました。
「お茶の間で見ることができた初めての戦争」といわれるように、米軍がメディアにオープンであったため、マスコミを通じて戦争の悲惨さが伝えられたことが大きかったと思います。小学生だった私は、ただただビックリしていました。

それもあって、今回も、開高健が従軍記者だったときに泊まっていたマジェスティックホテルを予約し、南ベトナム大統領官邸だったホワイトハウスを最初に見学するなどの予定を組んでいました。

ところが・・・


<h3>津波のようなモーターバイクの大群</h3>


街に着いて仰天したのは、ハエの如く道路を走り回るモータバイクでした。
100−150CCクラスの小型（原付バイク）ばかりが、ウジャウジャ。
通り一杯を占拠して、一斉に押し寄せてくるさまは、まるで津波のよう。

その昔（２０年以上前）、初めて中国に行ったとき、自転車の大群が襲ってくるように感じて、驚きましたが、今度はバイクなので、騒音とスピードも加わっています（笑）

そのうるさいこと、臭いことは、はなはだしく、さらに、チョコマカ動くので、危ないこともこの上ありませんでした。都心でも信号があまりないので、大通りを横断するために、神経をすり減らし、瞬発力を発揮しなければなりません（笑）

現地では、これが自家用車の代わりなので、１人ではなく、２人、３人が一緒に乗って、郊外から１時間以上かけてやってきます。「ホンダは素晴らしいが、値段が高いので」と、現地メーカーのバイクに、ホンダのステッカーを貼っているのが流行のようです。

モータリゼーション（自動車が大衆に広く普及し、生活必需品化する現象。
自動車中心の社会化）の初期段階にあることがよくわかりました。


<h3>大きな可能性を秘めている</h2>


もうひとつは、繊維製品の品質の高さです。

お土産物として、ワゴンに山積みになっている観光客用Tシャツを買ったところ、とても肌触りがよく、厚みもありました。数々の途上国で、粗悪品のTシャツをつかまされきた（！）私としては、驚きでした。

ユニクロなどアパレルメーカーが、ベトナムに工場進出しているニュースは耳にしていましたが、土産物でこれだけのクオリティを出せるなら、世界一品質にうるさい日本人向けでも十分でしょう。

また、「午前中に英語学校へ通い、午後からここで働いている」とキラキラした瞳で話したホテルレストランの２０歳ウエートレスの笑顔も忘れられません。アメリカとの戦争は過去のこととして（まだ枯葉剤の影響があるそうですが）、豊かさを求めて疾走する現在のベトナムの姿をあらわしているようでした。

これらを目の当たりにして、「BRICSの次にくる国」として、ベトナムが注目されている理由を実感しました。人口が９千万人もいて、平均年齢２５歳というのも強みです（日本は１億２千万人、４５歳）。世界で唯一アメリカに勝った根性と粘り、団結力が経済に向けられれば、相当の地位を獲得できるでしょう。

ベトナム株は、いまだリーマンショックから中々立ち直れていないようですが、投資先として十分に注目すべきと感じました。

]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>大理石とシャンデリアのヤマトホテル　満鉄の旅</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000378.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2011:/itoyu//5.378</id>
   
   <published>2011-07-20T07:31:18Z</published>
   <updated>2011-07-20T07:53:59Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;大理石とシャンデリアのヤマトホテル　満鉄の旅</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[ <h3>大連のヤマトホテルにて</h3>


　中国の東北地方へ旅行した経験を書いています。
 旧満鉄が経営していた、大連のヤマトホテルに宿を取り、ホテル内をブラブ
 ラして、お茶でも飲むか、と「喫茶・スナック」の看板がある店に入りました。

 すると、驚いたことに、ここにも玄関ホールと同じく、大理石の天井と壁
 があり、大きなシャンデリアが飾ってありました。

 広さは、7−80平米くらいでしょうか。L字型のカウンターがあり、内側に
 コーヒーサイフォンや洋酒、グラスが並び、あとは数人ずつが座れるボック
 ス席が3つ、小さなステージもあります。

 見るからに、日本の都市郊外や地方都市にある、小さな喫茶＆スナックの
 ようですが、やはりよく見ると、大理石とシャンデリアが・・・
 あまりのギャップの大きさに、クラクラしてきました（笑）


 <h3>喫茶店からスナックへ変身</h3>


 気を取り直して、窓際のボックス席に座り、コーヒーを頼みます。
 中国は他のアジアの国と同じく「お茶の国」ですが、ちゃんとまともなド
 リップコーヒーが出てきました。（ちなみにインドでは、今でも一流ホテル
 でさえ、ネスカフェが堂々とでてきます）

 ホテルは人民広場という円形の大きな広場の一角にあり、回りにもかつて
 の日本が建設した石造りの立派な建物が並んでいます。夕暮れにたたずむ
 街並みを見て、ひととき旅情に浸っていました。。。

 すると、なにやら店内があわただしくなってきました。
 3人ほどの女性スタッフがいたのですが、後片付けをして、帰り支度の様子。
 店じまいなのかな？と思っていると、今度は、少し派手な服を着た女性
 たちがバラバラと入ってきました。

 「どうしたのか?」と聞くと、「今からスナックタイムになる」とのこと。

 日本の喫茶＆スナックの場合、単に店の照明やメニューが時間帯で変わる
 だけですが、ここは、経営者そのものが入れ替わるのでした。したがって
 、雇っているスタッフもすべて交代します。

 あれよあれよと、一気に若い女性が１０人以上も店内にあふれました。


 <h3>ノーメイクの元日系OLママ</h3>


 そういうつもりはなかったので、帰ろうとすると、１人の女性が、
 「そのままいても構わないよ」と滑らかな日本語でいうので、また腰を落
 ち着けてしまいました。

 ３０歳前後で、ノーメイク。他に比べてやけに地味だな、と思っていたら
、なんとこの人が店のオーナー兼ママさんでした。

 昨年まで大連の日系企業にOLとして勤務していたが、縁あってこの店の
 権利を買い取り、水商売の経験ゼロのまま、ママになったのだとか。

 「面白いなあ」、と思ったのが、運のつき。
 この日から３日間、彼女とずっと過ごす羽目に陥ります。
 （ベッドは別。念のため。笑）


]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>駅弁がない！満鉄の旅</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000375.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2010:/itoyu//5.375</id>
   
   <published>2010-11-16T05:25:37Z</published>
   <updated>2010-11-16T05:30:29Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;駅弁がない！満鉄の旅
</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[<u><strong>歴史ある満州鉄道に乗る</strong></u>　


中国の東北地方へ旅行した経験を書いています。
瀋陽（旧奉天）駅から、特急列車で南へ一路、大連へ向かいました。約4
時間の旅です。

夜の旅行だったので、車内で食べる弁当でも買っておこう、と駅構内のお
店に立ち寄りました。

すると、売っているのは、菓子パンやカップめんなどばかりで、ご飯もの
がまったくありません。

あれれ？
おかしいな、と思って、あたりの他の店にも行きましたが、やはりなし。

近くにいた中国人に聞いたところ、
「中国の駅で、まっとうな食事は販売していない。
多くの人は、軽いパンやカップめんを買って、列車に乗り、車内で食べる。
きちんとした食事は、列車を下りてから」
といわれました。食堂車はないか、あっても、まずいそう。

なんと、中国には駅弁はなかったのでした！
（そもそも弁当というのが一般的ではないよう）

これまで中国各地を旅行してきたものの、飛行機や車ばかりで、列車の旅
は珍しかっただけに、初めて知りました。そういえば、ヨーロッパの列車
旅でも、食堂車はあっても、弁当を売っていなかったかも。

カップめんのお湯は、各車両に備え付け熱湯器があり、自由に汲めました。



<u><strong>車内の風景</strong></u>


かつては、この南満州鉄道をめぐって、ロシアと日本が戦争をし、その後、
張作霖爆殺事件・柳条湖事件など日中戦争に突き進む謀略事件が続きました。

そう思うと、歴史の重みをひしひしと感じてしまいました。

とはいえ、現代の列車は明るい車内で、若いカップルが楽しげに会話して
いたり、ビジネスマンが携帯電話にかじりついていたり。満席（1週間前
に申込みしないと予約がとれない）で、ガヤガヤと騒々しい平和な雰囲気。

特急なので、窓は密閉式で開けられず、4時間ノンストップ。かつての東
海道線の普通列車のように、4人がけのみで、イスは90度の直角。さす
がに、お尻と背中が痛くなります。

客車内は禁煙なのですが、デッキには灰皿があり、自由にタバコを吸えま
した。トイレはかつて日本でも主流だった、車外まき散らし型（タンクに
貯めるのでなく、そのまま高速で走りながら、線路に流し落としていく）。

車内放送などまったくなく、ウトウトするうちいつのまにか大連に到着し
ました。そういえば、さっき乗務員がゴミを集めてまわっていたっけ。
あれが終点に近づくサインだったのかな。


<u><strong>ヤマトホテルへ</strong></u>



大連駅について、さっそく近くの人民広場にあるヤマトホテルへ向かいます。

ここは、昭和初期、日本の南満州鉄道会社が経営していました。
中国進出への足がかりになった、いわば国策ホテルだったといえましょう。

多くの金持ち日本人が夜な夜な集っていたにちがいありません。

由緒あるホテルの雰囲気はいまだ変わらず、玄関ロビーは大理石の壁にお
おわれ、天井には豪華なシャンデリアが光り輝いていました。思わず、
「おおっ」と目を見開きました。階段も手すりが立派で幅広く、チャイナ
ドレス姿の女性が今にも下りてきそうです。

飾ってある絵や陶器なども素晴らしく、市内観光の名所だそうです。

こんなホテルに泊まるのも一興、と部屋をとります。
しかし、これはあまりよくなかった。

廊下がすでに薄暗く、なんだか消毒液の臭いが強くします。床は赤いじゅ
うたんを敷き詰め、一見りっぱなのですが、よく見ると、壁のはがれてい
る部分などが。。。

部屋に入ると、やはり窓が小さく、古ぼけた感じが否めません。木製の洋
服ダンスが置いてあり、開けるときキイキイと音を立てました。

三つ星ホテルだそうですが、格式があっても、全面改装をしていないので
実用的ではないですね。

「まあ、いいか」
と気楽に考えながら、ホテル内をブラブラ歩いてみると、喫茶・スナック
がありました。ここが今回の旅で一番面白い経験になるとは、そのとき思
っても見ませんでした。




（つづく）

]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>旧満州路を行く</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000373.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2010:/itoyu//5.373</id>
   
   <published>2010-10-01T06:55:31Z</published>
   <updated>2010-10-01T07:01:54Z</updated>
   
   <summary>清王朝と満州国を歩く 　夏休みは、中国の東北地方へ旅行しました。 最近、中国の歴...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[<u><strong>清王朝と満州国を歩く</strong></u>

　夏休みは、中国の東北地方へ旅行しました。
最近、中国の歴史に興味を持っていて、いろいろと本を読んで
いたため、私のクセで、つい自分の目で現地を確かめたくなる
のでした（笑）

成田から飛んだのは、まず瀋陽（遼寧省）。
かつて奉天と呼ばれていました。

中国の近世を支配した王朝である清は、当初、ここに首都を築
きました。なぜなら彼らは中国の大多数を占める漢民族ではな
く、東北地方にもともと住まう満州民族（女真人）だったから
です。

それ以前に金という国を建てたことがありますが、その後は分
裂していたのを、17世紀に「ヌルハチ」（姓は、愛新覚羅＜ア
イシンギョロ＞と読む）という英雄が出て、民族を統一、新王
朝を始め、瀋陽に都を置きました。

北京に攻め込んで、中国全土を治めるようになったのは、第三
代皇帝のときです。そのため、初代と二代の皇帝のお墓は瀋陽
にあります。

<u><strong>張作霖・張学良の豪邸</strong></u>



北京に故宮（紫禁城）という有名な王宮がありますが、瀋陽に
はその前に皇帝がいた「瀋陽故宮」があります。

巨大な北京のそれに比べると、規模はささやかではありますが、
質実剛健を思わせる宮殿が並んでいました。

半農半猟という満州人（モンゴル人は全猟）が弓矢と馬を持っ
て、満州の大草原や朝鮮半島との国境の山地を駆け回り、広
く支配地を広げていった姿がしのばれます。

ちなみに、満州というのは、女真人が「文殊菩薩」（仏教）を
信仰していたため、自分たちを「マンジュ」と呼んだことに
由来するそうです。

瀋陽はまた、近代になって、軍閥の張作霖・張学良一族が支配
した地でもあります。日本史で習った、張作霖爆殺事件はここ
で起きました。日本の関東軍が邪魔になった彼を暗殺し、のち
の満州事変につながっていきます。

張一族の邸宅をみたのですが、これが驚くべきことに、ヨーロ
ッパ風の大理石を積み上げて造られた3階建ての洋館でした。

よくもまあ、昭和の初期に、中国の奥まった場所に、こんなお
しゃれな家を造ったものだと感心しました。今でも十分プチホ
テルか結婚式場として使えそうです。よほどの権力・財力を
持っていたことがうかがえます。


<u><strong>日露戦争の舞台でもある</strong></u>



瀋陽はかつて奉天とも呼ばれ、日露戦争（明治時代）の陸地で
の雌雄を決した、奉天会戦の場でもあります。最近、NHKドラ
マ「坂の上の雲」（司馬遼太郎原作）で話題になっています。

とにかくだだっ広く、昭和初期の日本人が開拓の希望に燃えて、
わざわざ移民してきた気分が少しわかるような気がします。
（植民地を肯定はしませんが）

現在は工業都市として発展しており、人口は800万人もいます。

瀋陽駅の混雑は半端ではなく、タクシーの奪い合いにエネル
ギーを消費しましたが（笑）、ロシア（当時ロマノフ王朝）
が敷いた東清鉄道（のちの南満州鉄道）にのって、かなたまで
ひろがる草原を眺めていると、ツワモノどもの夢のあと、と
いう感慨が湧き上がってきました。

特急列車は4時間かけて、大連に向かいます。


（つづく）

]]>
      <![CDATA[<a href="<$MTEntryPermalink$>">旧満州路を行く</a>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>インドみてある記最終回</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000367.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2010:/itoyu//5.367</id>
   
   <published>2010-02-09T03:31:51Z</published>
   <updated>2010-02-09T03:37:48Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;インドみてある記最終回
 
</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[前回は、「インドみてある記その7」でしたね。
「聖地ベナレスへ」「夜明けの沐浴をみにいく」「死を考えると、生を
考える」などでした。


<u><strong>アグラへ</strong></u>



　ベナレスをあとにし、またも夜行列車で、アグラへ向かいました。
１週間で３度の夜行列車はさすがにキツイ。

列車の中で、韓国人のグループ、日本人の女性2人組とあいました。
日本の観光地に韓国人旅行者が大勢来ていることは知っていたので、イン
ドにもくるようになったのだな、と合点がいきました。

ただ、彼らの場合、個人旅行者を見かけることはまずありません。
団体、もしくはグループ単位で、皆で仲良く旅行する、という感じです。
このあたり、日本人が団体で世界の名所にでかけて評判になった（「メガ
ネとカメラを持ったグループをみたら、日本人と思え」といわれた）60−
70年代を思い起こさせます。
国の成熟度からいって、だいたいそのあたりなのでしょうか。

日本人は２０代半ばの小学校教師2人組でした。
見た目は小柄なかわいい感じで、アジアの各地を休みのたびに旅行してい
る、とのことでした。

９０年代初めにインドを放浪していたころといえば、出会う日本人女性は、
デザイナーやカメラマン、料理人の卵たちが中心で、タイプも一癖も二癖
もあり、いわゆる「フツーの女性」はいませんでした。

「日本でも、インドがマニアだけでなく、広く世間に知られ、関心を呼ぶ
ようになったのだな」と感慨深いものがありました。



<u><strong>世界遺産タージマハール</strong></u>



アグラといえば、世界的に有名なタージマハールがあります。
インドがまだイスラム王朝（ムガール帝国）に支配されていた17世紀半
ば、皇帝が最愛の王妃の死を嘆き悲しんで、総大理石で２０年、2万人を
動員して、そのお墓として建築しました。

宮殿と誤解している人が多いようですが、お墓なのです。白亜の大理石の
お墓というのは、日本人にはちょっと理解が難しいかも。皇帝は続いて隣
に、自分の墓を黒の大理石で作ろうとしたのですが、息子に「いい加減に
しろ」と幽閉され、未完に終わりました。

以前いったときは、ブラブラと散歩しながら低料金で入場でき、気軽に見
て回った（８３年世界遺産登録なので、当時すでに登録済）のですが、経
済成長に伴って世界中から注目されるようになって、年間200万人が訪
れるようになり、警戒と管理が厳しくなっていました。

まず、環境保護のため、付近へ車の乗り入れ禁止。離れたところに車を止
め、電気自動車か徒歩で入り口までいかねばなりません。ゴミは捨て放題、
車やバイクがあふれ、トイレもろくにないのに、「環境保護？」とおもわ
ず突っ込みを入れたくなりました（笑）

次いで、入場料が高くなり、しかも外国人料金が設定されていました。
インド人は７０円なのに、外国人は７００円。なんと１０倍！
日本人の感覚からいえばたいしたことのない値段ですが、物価の格安なイ
ンドではトンデモナイ高額です。（紅茶1杯3０円、カレー定食１５０円）

もうかるとなったら、取れるところから取ってやろうという商魂が生まれ
てしまったようです。これも経済センスのなせるわざかもしれませんが、
余裕がなくなったようで、ちょっとがっかりでした。



<u><strong>まとめ</strong></u>



これまで８回にわたって、「インド見てある記」を書いてきました。
私が訪問したあと、世界的な金融恐慌が起き、経済状況は大きく変わって
しまい、インドもこれまでのような成長率は維持できなさそうです。

しかしいったん走り始めた経済開放路線は変わりようがなく、インド人も
豊かさを求めて、どんどん積極的にビジネスを展開するのは続くでしょう。

なんといっても中国を超える世界一の人口（１４億人らしいが、統計がい
い加減で誰も正確に知らない）を抱え、安い賃金で英語ができるのは、大
きな武器です。中産階級だけで2億人いますし、どの街を歩いても、人々
のエネルギーに圧倒されます。

１０年ぶりのインドは、「うるさい、臭い、暑い」の3拍子は相変わらず
でしたが、あちこちで明るい未来を予想させる現代化が進み、先進国並み
を目指そうとしているのが感じられました。

願わくば、得体のしれないふわふわした浮遊感覚、善も悪も飲み込んで渾
然一体となっている奥の深さ、何かトラブルがあっても「ノープロブレム」
を連発するアバウトさは、保ち続けてほしいものです。
（生真面目な日本人からすると、とても居心地のいい空気があるのです）

図体が大きいので、その歩みはゆっくりでしょうが、21世紀の大国に成長
する可能性は十分でしょう。今後も関心を持って、その実像をウオッチし
ていきたいと思います。
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>インドみてある記その7</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000363.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2010:/itoyu//5.363</id>
   
   <published>2010-01-15T06:40:36Z</published>
   <updated>2010-01-15T06:46:28Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;インドみてある記その7
</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[前回は、「インドみてある記その6」でしたね。
「村を歩く」「電気なし、水道なしの暮らし」「経済成長に乗る人、変わ
らぬ人」などでした。



<u><strong>聖地ベナレスへ</strong></u>



　ブッダガヤーをあとにした私は、再び夜行列車に乗り、ベナレス（バラ
ナシともいう）へ向かいました。

ブッダが現れる前から開けていたというベナレスの街は、大変古くて、現
在も大都会です。道路も古いだけに、大量の車とバイクと自転車と牛たち
が、押し合いへしあいしながら、蛇行して流れています。

ここは、インド人が、
「死ぬまでに一度は訪れたい」
「死んだら、ここで埋葬してほしい」
と願う、ヒンズー教で一番の聖地です。

日本では、死体が川を流れている、とか、のら犬が死体を食べている、な
どといったキワモノ的な印象で語られることも多いのですが、それらはい
ずれも宗教上の理由によるもので、インド人にとっては、とても崇高な儀
式の結果なのです。

参考：遠藤周作「深い河」（わけありの日本人がベナレスを旅する小説）



<u><strong>夜明けの沐浴をみにいく</strong></u>



さっそく翌朝、ヒンズー教徒の儀式である、沐浴を見学に出かけました。

まだ朝５時前というのに、たくさんのインド人（）が群れをなして、川の
ほとり（ガートという階段状になっている場所）に押しかけ、ボヤボヤし
ていると、ドツかれてしまいます（笑）

一心不乱に経文を唱えながら水をかぶる人、頭まで水に浸かる行為を繰り
返す人、持ってきたコップやバケツに水を汲む人、彼らに花を売る人、食
べ物屋などなど、ゴチャゴチャになっており、火事場の大騒ぎのようです。

輪廻転生を繰り返すという考え方のヒンズー教では、死ぬとこの川に帰り、
また来世に生まれ変わってくるといいます。来世に人間として戻れるよう
（虫や獣になることもあるらしい）、願いを込めて祈るのです。

河原の一角には、青空火葬場があります。
亡くなった人をここまで親族が運んできて、火葬にします。屋根や囲いが
ないので、誰でも遺体を焼いているのがみられます。

焼き終わると、そのまま川に流され、その人の魂はあの世に帰っていきます。

川の流れはとても濁っていて、茶色をしています。おそらく水中にはとん
でもなく、さまざまなものが沈澱しているのでしょうが、誰もそんなこと
はいいません。

地元の人にとっては、生活の場でもあるので、沐浴や火葬をしている隣で、
洗濯をしたり、体をせっけんで洗ったりしています。

死を正面からみつめる聖なる場所でありながら、生きる人の暮らしの場所
でもある。混沌（カオス）としたインドを体現する場所として、初めて見
た時は、めまいがしました。



<u><strong>死を考えると、生を考える</strong></u>



日本では、火葬場でガスで焼かれてしまうので、終わった後、親族が骨を
拾うだけです。お正月や試験のときくらいしか、祈ることもしません。

亡くなるのもほとんどが病院であり、地下の霊安室から運ばれてしまうの
で、現代では死を正面からみることがなくなっています。

「死ぬことを真剣に考えないから、生きることを真剣に考えないのだ」
という言葉があります。

確かに、飢えや戦争などがあれば、死が身近にあり、どうやってそこから
逃れるか、つまり生き抜くかを一生懸命考えねばなりません。

しかし、今の日本では、いくら不況とはいえ、死がまじかに迫ることはめ
ったになく、元気でありさえすれば、なんとか生きていくことができます。
なんとなくでも、生活はできるのです。

平和で豊かな社会の恩恵を受けているのを当然としてきた我々ですが、一
方で、ふわふわ、もやもやとした、漠然とした生き方をしてしまいがちな
風潮につながっている気もしました。

今一度、真剣に自分がいきているのか？
自問自答してみよう。
そんな気持ちになりました。



（つづく）
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>インドみてある記その6</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000362.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2009:/itoyu//5.362</id>
   
   <published>2009-12-01T07:34:43Z</published>
   <updated>2009-12-01T07:55:52Z</updated>
   
   <summary>前回は、「インドみてある記その5」でしたね。 「深夜特急の旅」「スピリチュアル・...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[前回は、「インドみてある記その5」でしたね。
「深夜特急の旅」「スピリチュアル・スポットへ」「1時間半の幸せな瞑想」などでした。

<u><strong>村を歩く</strong></u>


ブッダガヤー出身のインド人ガイドが、
「ぼくの村を案内しよう」
というので、あとをついていきました。


菩提樹の遺跡から車で数分。
喧噪渦巻く世界遺産のすぐ近くだというのに、なんとものどかな田園風景
が広がっていました。


脇道に入り、数軒の家が固まっている集落に。
３０代くらいの男性が道端にしゃがんで、こちらをみています。
目が合うと、彼はニッコリほほ笑みました。


何をしているのかしらん？
とじっくり観察したら、水路にまたがって大便をしていました。
思わず私が目をそむけてしまいました（笑）




<u><strong>電気なし、水道なしの暮らし</strong></u>



集落の家は、いずれも小さなつくりで、土でできているようでした。
壁も屋根も、地面の色と変わりません。


中へ入ると、真っ暗。
電気は引いてありませんでした。中央にかまどがあって、ここで主食のチャパティ
（ナンの庶民版。ペラペラでお好み焼きみたい）を焼いているようです。
食器はアルマイト（日本の学校給食でよく利用されたもの）です。


水は近くの井戸から汲んできていました。
洗濯は川でするもので、石に服を叩きつけてします。粉せっけんはもとも
とありますが、地元メーカーだけでなく、ユニリーバなど安い海外品が普及してきたようです。


飲み水はカメに貯めてありましたが、衛生状態はわかりません。飲用とそ
の他用とは、分かれていました。まわりは一面たんぼなので、水には不自
由していませんでした。


集落の真ん中に、小川というか溝が流れ、生活排水が流れています。
もちろん舗装などなく、土の地面なので蛇行しており、子供は裸足で、
ときどき下半身丸出しで、そのあたりを駆け回っていました。




<u><strong>経済成長に乗る人、変わらぬ人</strong></u>



村人のほぼ全員が農業に従事し、相当低い収入に甘んじています。
ガイドは親が小さなホテル（安いゲストハウス）を経営しており、
そこそこの収入があったので、ガヤーの大学に入り、アルバイトで土産物屋を
手伝いながら日本語と韓国語を勉強し、観光業で身を立てようと考えたとか。


そういえば、菩提樹の遺跡のそばで、２０年近く前に世話になったインド人の
土産物屋を発見しました。仏像や数珠を観光客に売っているのです。
今本人は日本へ行っているとのことでしたが、とても懐かしく思いました。
（なんとガイドがアルバイトしていたのは、ここの店だった！すごい偶然）


経済成長が進んできたので、努力と才覚があれば、富を蓄えるチャンスは
増えてきたようです。ただ農業に従事している人たちは、学校へ行くことも
あまりなく、先祖と同様、田を耕す暮らしをそのまま続けています。
田園地帯には、２０年近く前に見たときと、変わらぬインドの姿がそこに
ありました。



（つづく）
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>＜事業仕分け＞を見学してみた</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000358.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2009:/itoyu//5.358</id>
   
   <published>2009-11-19T02:20:59Z</published>
   <updated>2009-11-19T05:50:08Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;＜事業仕分け＞を見学してみた
</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[学生時代にお世話になった、田英夫・元参院議員が亡くなりました。
思えば私が関わった、初めての政治家でした。
マスコミの大先輩（共同通信記者、TBSキャスターだった）でもありました。
菅直人副総理や江田五月参院議長の元ボスでもあります。
謹んで、ご冥福をお祈りします。。。



<u><strong>誰でもすぐ見れる予算の検討会</strong></u>


話題沸騰中の行政刷新会議による「事業仕分け」をみてきました。
オフィスのある神楽坂から近いので、ランチのあと、ぶらぶら出かけました。
予約はいりません。

東京都心ながら不便な場所（市ヶ谷駅から歩20分）にある会場は、体育館を
パーテーションで3区間に間仕切りしただけで、まるで殺風景な高校の文化祭の
研究発表会場、といった趣。

その中を、ダークスーツの中年男性ばかりが書類を抱えて行き交います。
同行した20代女性アシスタントがやけに目立ち、皆が振り返っていました（笑）

入り口でボディチェック、荷物検査があった以外は、簡単に入場でき、議論
を聞き取りやすいようヘッドホンを貸してくれました。
そういえば、あるはずの免許証などのチェックもなかったな？
配られたA4版100ページの資料集がずっしり重い・・・

報道陣がやけに多く、1社数人ずつで、ずっとウオッチしているようです。
同様に一般見学者の席もいっぱいで、毎日500人が詰め掛けているとか。今回
はあいまいな立場で出かけたので、しばらく待って、やっと座れました。




<u><strong>かみ合わない議論も</strong></u>


はじめ、厚生労働省の独立行政法人についての検討会をみました。
聞きたいテーマを選んで、勝手にそのブースにいけば、傍聴できます。

企業年金の普及促進費（23億円）、年金の広報経費（2億円）が議題に載って
いました。

厚労省担当者が目的や内容を熱心に説明するのですが、「必殺仕分け人」た
ちはあまり聞いていないようで、「補助金を出しているのに、それらの団体
に厚労省から天下りがあり、役員数が多すぎる」などと指摘。なんだか議論が
かみ合っていない気がしました。

「結論ありきではないか」との批判がありますが、このあたりチェックポ
イントを最初から決めてかかっている面もあるようです。
参謀である財務省のアドバイスか？

結論は、前者が「3分の1の予算縮減」、後者が「廃止」と厳しい内容。
すぐに出入口近くの一覧表に、黒マジックで結論が手書きされていきます。
1時間であっという間に、一巻の終わり？



<u><strong>役人のズレ、丁々発止の議論</strong></u>


次に、法務省の裁判員制度の啓発促進（1億円）について。

「ここ数年、ずっと全国各地でポスター掲示や説明会をしてきて、認知度が
高まった」と役人が実績を強調すると、
仕分け人が「じゃあ、もう十分でしょう」とあっさり指摘。

「いやいや、まだ参加に消極的な人が多いので、続ける必要があります」

「でも同じことをしていても、これ以上効果がないのでは？裁判員候補者への啓発な
どは考えているのですか？」

「次の手はとくに考えていません・・・」

このあたりの丁々発止のやりとりは見ごたえがありました。PRに詳しい人間と
しては、つい、手を挙げて意見をいいたくなってしまった（笑）

結論は「予算計上見送り」。少なくとも来年はやらなくていい、ということです。
いったん始めると何も考えずに続けようとする役人の習性が垣間見えました。

それにしても、全国5千のビデオレンタル店に裁判員制度の紹介DVDを置いて
いるとは知らなかった。私もレンタル店はちょくちょく行くのですが、はたして
エンタメを楽しむために来た客が、裁判員のDVDを見るでしょうか？
このあたり、役人の感覚が世間とずれているようです。




<u><strong>オープンな議論が改善を生む</strong></u>


今回はちょっと覗いただけですが、なかなか楽しめました。
自分の払っている税金の使い道について、権力者同士がしのぎを削るショーと
みることもできます。テレビ局が喜ぶわけだ。

同行女性は「テレビでは派手にやりあう場面ばかりでしたが、実際は落ち着いた
議論が多いのですね」と感想を話しました。

誰かがどこかで勝手に決めていた国家予算について、こうしてオープンに目の
前で議論するのを見ることができるのは、とても有意義です。これだけでも政権
交代の意味はあったかも？

インターネットの生中継もあるので、興味ある方はご覧になってはいかがでし
ょうか。常に1−2万件のアクセスがあるそうです。

（ライブ中継サイト）　次回は24−27日の4日間です
http://www.cao.go.jp/sasshin/oshirase/live.html
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>インドみてある記その5</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000355.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2009:/itoyu//5.355</id>
   
   <published>2009-10-21T09:05:41Z</published>
   <updated>2009-10-21T09:08:07Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;インドみてある記その5
</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[前回は、「インドみてある記その4」でしたね。
「きれいなデリーの地下鉄」「サラリーマンの足に利用」「映画館にびっ
くり」「世界一の映画事情」などでした。


<u><strong>深夜特急の旅</strong></u>



以前、ＮＨＫ「そのとき歴史が動いた」で、マザーテレサの特集をしてい
ました。その昔、マザーを直接訪問し、「死を待つ人の家」などでボラン
ティアしたことなどを思い出しました。

今回のインド訪問では、ブッダガヤーなど仏教遺跡をたずねました。

デリーから深夜特急で、およそ10時間。
エアコンと弁当、おやつがついていましたが、三段ベッドの一番上とあっ
て、いったん登ったら、もう降りられない（笑）

ステップなどほとんどついておらず、ベッドの枠をつかんでよじ登るよう
にしなければなりません。しかも頭を上げるとすぐに天井にぶつかってし
まい、狭いことこのうえない。深夜にエアコンは肌寒くなり、毛布をかぶ
りました。

「インドで最も高価で、最も早い特急。なかなか予約がとれない」
とガイドは自慢していましたが、老人などどうやってはいあがるのでしょ
う？どうやら自動車ほど列車は進歩していない様子。独占企業ゆえの無競
争のせいでしょうか。日本の昔の国鉄みたいかも。



<u><strong>スピリチュアル・スポットへ</strong></u>



早朝5時ぐったりして、ガヤー駅に到着。
すぐに車で出発しようとするので、
「ちょっと待て。休憩させろ」
と主張し、駅の待合室でシャワーを浴びました。

これはインドの大きな駅はどこでもある「リフレッシュメントルーム」で、
ただの待合室でなく、仮眠できるベッドやシャワールームがあるのです。
切符を持っていれば入場できるので、疲れをとるのに大変有効です。
これは逆に日本でもあればいいのに・・・

やっとこさ人心地がつき、10キロ離れたブッダガヤーへ。

02年に世界遺産に登録されたそうで、十数年前にひなびた農村だった
（ブッダの時代とほとんど変わっていないといわれていた）ところは、一
大観光スポットに変貌していました。観光バスのターミナルやタクシー乗
り場が混雑し、みやげもの屋やホテルが立ち並んでいます。

「ずいぶん開けてきたなあ」
と驚きながら、客引きには目もくれずに、まっすぐにお釈迦様が悟りを開
いたという菩提樹を囲む、マハーボーディ寺院 （大菩提寺）に。

何を隠そう、ここが今回の旅行最大の目的地でした。多少仕事などに迷い
が出て、自分を見つめなおしたい、そんな気がしていたのです。聖者が悟
りを開いた地にあやかりたい、と思ったのかもしれません。



<u><strong>1時間半の幸せな瞑想</strong></u>



広い庭園の真ん中に、小さなお堂がありました。堂内に入ると、狭い室内
に金色の仏像が設置されており、その前の6畳分ほどの床で、オレンジ色
の袈裟を着た2人の僧侶が瞑想をしていました。
（仏教の聖地だけに世界中の仏教徒がここにはやってきます）

部屋に入ったとたん、ヒンヤリとする冷気を感じ、ほかとは違う雰囲気に
包まれました。思わず頭をたれ、手を合わせます。

多くの観光客はこのまま引き返すのですが、私はすぐに立ち去りがたく、
僧侶の横に並んで座禅を組み、静かに目を閉じました。

かつてここを訪れたころは、日本でも禅寺に通うなどしていましたが、そ
の後クリスチャンになったので、遠ざかっていました。ずいぶん久しぶり
の座禅と瞑想になりました。

何も考えないように努め、ひたすら背筋をまっすぐに保つ姿勢と、長く吐
いて短く吸う呼吸に意識を集中します。なるべく長く長く吐いて、胸の息
を吐ききって、一瞬で吸うのがコツです。初めはうまくできませんでした
が、30分も繰り返すうちにリズムができ、体が引き締まっていくのがわ
かりました。

途中多くの人が出入りする気配を感じましたが、そのうちそれも気になら
なくなりました。意識がどんどん遠くなり、眠っているような感覚に落ち
ていきます。

ふと気がつくと目の前にガイドが心配そうな顔をして、立っていました。
時計を見ると、すでに1時間半が経過していました。

ずいぶん長く座っていたようです。
心と体がすっきりしました。とても幸せなひとときでした。

「これで今回のインド旅行の目的は達した」
そんな満たされた気分になりました。



（つづく）
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>インドみてある記その4</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000325.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2009:/itoyu//5.325</id>
   
   <published>2009-09-09T07:00:28Z</published>
   <updated>2009-09-09T07:03:38Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;インドみてある記その4
</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[


前回は、「インドみてある記その3」でしたね。
「新しいインドを見に行く・・・グルガオンの街」「ブランドショップ、高層
マンション・・・」「進化するインドを実感」などでした。

今日は続きです。


<u><strong>きれいなデリーの地下鉄</strong></u>



グルガオンの街からの帰り道、高級マンションに住んでいる人たちは、最
近できたばかりの地下鉄で都心のオフィスに通っていると聞きました。

そこで、ガイドに頼み込み、車を降りて、地下鉄に乗ってみました。
乗車駅は、ホームが地上にあり、普通の地上電車のおもむき。
自動改札（！）をとおってホームへ。やがて列車が来ました。

なんときれいな！
シルバーに輝くピカピカの車両がホームに滑り込んできました。

さっそく乗り込むと、広々とした車内には、両壁に沿ってイスが設置され、
日本の地下鉄とほとんど変わりません。広告のたぐいは一切ないので、ス
ッキリした感じがします。


<u><strong>サラリーマンの足に利用</strong></u>



乗客を見回してみると、やはりそれなりというか、中流階級だなあ、とい
う雰囲気の人々が中心でした。
（インドの金持ちは自家用車・ヘリなどしか乗らないので、公共交通機関
では見かけない。貧しさも極端なら、金持ちも極端）

通勤ラッシュの時間帯には、満員になり、押し合いへしあいになるそうです。
もう日本の都会となんら変わりがありません。

途中から地下に潜り、都心の駅は地下鉄のイメージどおりの姿でした。車
内放送はないうえ、ホームに駅員はおらず、改札の小屋？に１人いただけ。

インドは人口が多く賃金が安いので、なるべく１つの仕事を皆で分け合お
うと、どこでも多くの人が働いているのですが、このあたり、先進国（人
口が少なく賃金が高い）をコピーしたのでしょうか？

そういえば、９０年ごろカルカッタで地下鉄（当時国内唯一）に乗ったこ
とがありました。７0年代に建設されたそうですが、暗くてあまり使う人
もおらず、ちょっと怖い雰囲気すらありました。（今は作り直してきれいに）

それに比べると、ずいぶん立派になったなあ、と感心しきりでした。
車がどんどん増え、渋滞がひどくなる一方なので、地下鉄の建設は重要さ
を増しており、この先もっと延伸されて、路線が伸びていくそうです。


<u><strong>映画館にびっくり</strong></u>



都心に戻って、今度は映画をみました。

ニューデリーの＜コンノートプレイス＞という、以前からあるデリーを代
表する一大商業施設の中にある映画館にいきました。

驚いたのはその設備水準の高さ。
１人1000円も入場料がして（庶民じゃみられない高値！）、リクライ
ニング・ドリンクホルダーのついた指定席、ドルビーサラウンドシステム
など、先進国並みのゴージャスなもの。

思わずインドにいるのを忘れてしまいます。ホールには軽食カウンターが
あり、コーラやポテト、ハンバーガーなどを売っていました。
（余談：そういえば、以前あったインド製コーラは姿を消し、アメリカの
本物のコーラがどこでも売られていました。コカよりペプシの方が強いよう）


<u><strong>世界一の映画事情</strong></u>



映画の内容は、現代の大学生の男女が主役で、結婚をめぐる家と家の階級
差の問題、本人たちの葛藤などが描かれていました。

インドの娯楽の王様である映画は必ずハッピーエンドになっており、軽快
な音楽にのせて、踊りと歌が盛りだくさんの、楽しい映画でした。

少し前に日本で、インド映画「ムトウ　踊るマハラジャ」が大ヒットした
ことがありますね。極彩色とにぎやかさで話題になりましたが、インド映
画の基本がそうなのです。

カースト制度のせいで、芸能人もすべて家業で、日本の歌舞伎などに近い
かも。美男美女であるだけでなく、歌って、踊れないと一人前ではない。

南西部の商業都市ムンバイはボリウッド（ボンベイ＋ハリウッドの略。ボ
ンベイはムンバイの旧名）とも呼ばれ、インドの映画の都でもあります。
インドの映画は、作品数、入場者数で世界最大を誇る一大産業です。

その昔インドに来たときは、入場料100−300円くらいで、立ち見で
何度もみた覚えがあります（イス席はなかった）。インド映画は4時間を
越えるものも珍しくないので、途中で休憩が入ります。

観客の反応もストレートで、大騒ぎしながら感情移入して楽しみ、ストレ
ス発散にしているようです。日本と違って、テレビやインターネットが普
及しても、映画の人気は不動かもしれません。




（つづく）
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>インドみてある記その3</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000320.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2009:/itoyu//5.320</id>
   
   <published>2009-08-07T14:01:12Z</published>
   <updated>2009-08-07T14:07:16Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;インドみてある記その3
</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[前回は、「インドみてある記その2」でしたね。
「ストリート・チルドレン健在」「逃げ回っていた昔」「豊かさは誰の手
に？」などでした。

今日は続きです。



<u><strong>新しいインドを見に行く・・・グルガオンの街</strong></u>


　新しいインドを見たかったので、ガイドに頼んで、デリー郊外へ車を飛
ばしました。＜グルガオン＞という新興地域です。ちょうど日曜でした。

ゴチャゴチャしたオールドデリーの街中を抜け出し、ハイウエイをすっ飛
ばします。かつて、インドの「ハイウエイ」といえば名ばかりで、牛もト
ラクターも走っています、というシロモノ。

どこが「高速」なんじゃい！
といいたくなるレベルでしたが、今度はホンモノでした。

片道3車線の広々とした、自動車専用道路で、料金所もしっかりあり。
バイクは無料だそうで、スイスイと料金所の脇道を抜けていきます。
（これは日本も真似していいんじゃないか？）



<u><strong>ブランドショップ、高層マンション・・・</strong></u>


ざっと1時間あまりで到着しました。

驚くべきことに、あたりは、高級ショッピングモール、超高層マンション
が林立していました。

「ここはインドだよね？」
思わず自分のほっぺたをつねりたくなります。

かつてＴシャツにサンダル姿でうろつきまわった時代にいつも回りにあっ
た、喧騒と悪臭と人ごみは、どこにも見当たりませんでした。

ショッピングモールのひとつに入ってみます。
車を駐車場にとめ、入り口でセキュリティチェックを受けます。

3階まで吹き抜けの広くて高い天井がまず目に付きました。
1階の真ん中には、チャイルド広場が。子ども連れの中産階級を顧客層に
しているのだ、とすぐにわかりました。

「おおっ、エスカレーターがあるぞ！」（空港など以外で初めてみた）
「コーヒーショップがある！！」（インドは紅茶の国なので、ほとんどコ
ーヒーはない。レストランでも、ネスカフェのインスタントがせいぜい）

さらに驚くことに、軒を並べる店は、いずれも世界的なブランドショップ
ばかりなのでした。ナイキ、ベネトン、ノキア（携帯電話を持つ人がまわ
りにたくさん）、マクドナルド（インド人はビーフを食べないので、チキン
バーガーのみ）などなど、おなじみの世界の先端をいく企業の店ばかり。



<u><strong>進化するインドを実感</strong></u>



こんなモールが付近にいくつも立ち並び、映画館まであるモールすら、あ
りました。日本でも流行のコンプレックス（複合小売施設）です。

それぞれのショップで値段を見ると、日本よりは安い、といった水準で、
インド人からしたら、相当に高いものです。

「こんなモノを買えるようになっているんだ」
と感心しながら周りの風景を見ると、マンションからは自家用車（カロー
ラのサイズが多い）に乗った、いかにも新世代のインド人たちが皆でお出
かけする時間帯でした。

女性の服装も、伝統的なサリー（巻きつける布切れ）ではなく、動きやす
いパンジャビードレス（首からかぶる袖ありワンピース＋ロングパンツ）
が多く、活動的にみえます。

男性も白い無地の下着っぽいクルターなどでなく、ポロシャツなどでおし
ゃれです。インド人は彫りの深い顔立ちでまつ毛が長いので、皆モデルの
ように見えてしまいます。

「ここらのマンションは、日本円で1千万円くらいするんだよね」
と若いガイドがうらやましそうにつぶやきました。

外資系企業やＩＴ企業に勤務する人が多く、日本人をはじめとする外国人
も、たくさん住んでいるそうです。

中国・北京や上海の発展ぶりはよくＴＶでみかけますが、中国と並び称さ
れるのに、インドの現在の姿はなかなかマスコミに登場しないので、ここ
でようやく確認することができました。



（つづく）
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>インドみてある記その2</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000317.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2009:/itoyu//5.317</id>
   
   <published>2009-07-24T11:03:33Z</published>
   <updated>2009-07-24T11:11:19Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;インドみてある記その2
</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[前回は、「インドみてある記」でしたね。
「久々のインド訪問」「急ピッチのモータリゼーション」「リキシャはそ
のままだった」などでした。

今日はその続きです。


<u><strong>ストリート・チルドレン健在</strong></u>



いよいよ空港からデリーの市街へ入りました。

片側2車線ある大通りで、信号待ちになったとき。
やってきました、あの人たちが・・・。

豊かな社会になったのなら、もう消滅したのかもしれないと、かすかな期待
をしていたのですが、そう簡単に貧富の差はなくなっていなかったのでした。

そう、ストリート・チルドレン。
略すと、＜路上生活者＞＜乞食＞です。

裸足でボロをまとった子どもたちが、わらわらと窓ガラスめがけて走り寄
ってきて、
「ギブミー　マネー！」
「ワン　ダラー！！」
と手を伸ばしながら、口々に叫んできました。

「やっぱり彼らは健在か・・・」
とがっかりしたような、懐かしいような、不思議な気分に包まれました。


<u><strong>逃げ回っていた昔</strong></u>



初めてインドを訪問したとき、このストリート・チルドレンのアタックに
は仰天しました。

タクシーに乗って窓を開けていたら、車内にまで手を突っ込んでくるのです。
座席にいては逃げようもなく、
「ノー、ノー」
とおびえて、腰を引くのがせいぜいでした（苦笑）

道を歩いていても、手を伸ばしながら一緒に歩きながらついてきて、いつ
までも離れようとしません。レストランの中に入ってきて、各テーブルを
回ったりもします。

言葉のイメージからすると、街角にたたずんでいで、ひっそりを哀れみを
請う、という感じですが、インドの人々はものすごく積極的、行動的でした。

しかも、片腕がなかったり、ひどいと両足が無くて、体を引きずってある
いている人（子どもとは限らず）までいました。迫力が違うのです。

日本で見たことのない、悲惨（？）、壮絶（？）な光景に、私はただただ
驚いて、当時、彼らから逃げ回ってばかりいました。

他人に直接、手渡しでお金を恵むという方法に、戸惑いを感じていた部分
もあるかもしれません。渡さないと罪悪か？などと、なぜ私が悩むことも。

慣れてくると、
「自分があげたいときには、渡し、そうでないときには、そうする」
と、是々非々で望むことができるようになり、気持ちが楽になりましたが。


<u><strong>豊かさは誰の手に？</strong></u>



あとでわかったのですが、インド人が信じるヒンズー教では、
「富める者が貧しい者に分け与えるのは、当然のこと」
だそうです。

そのため、もらうほうにあまり躊躇がありません。
せっかく悩んで（？）お金を渡したのに、全員がウンともスンともいわず
に、黙って去ってきます。

「あれ？」
と違和感を覚えつつも、
「じゃあ、俺は＜サンキュー＞をいわれて、優越感に浸りたかったのか？」
とまたまた悩んでしまうのでした。

ともあれ、ふたたびインド名物（？）の洗礼を浴びました。

中産階級が富を蓄え、インド経済は大きく発展しましたが、その恩恵が全
員に行き渡るには程遠いようでした。人口14億人という途方も無い数の
人間が、一律に豊かになるのは難しいのかもしれません。

大昔からのカースト制度が、社会的、精神的にはいまだ厳然と残り（憲法
ではインド独立時に廃止されたことになっている）、生まれながらに職業
を規定され、乞食の子は乞食にしかなれない、という非情な現実がいまだ
にあるのも、大きな障害でしょう。

豊かさとは誰のためのものなのか？
改めて考えさせられました。



（つづく）
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>インドみてある記</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000316.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2009:/itoyu//5.316</id>
   
   <published>2009-07-02T10:50:11Z</published>
   <updated>2009-07-02T10:52:42Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;インドみてある記

</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[
<u><strong>久々のインド訪問</strong></u>


久々にインドに行きました。

初めて行ったのは、17,8年前。仕事を辞めて、半年間放浪していました。
その後、ビジネスの取材で、2,3度訪問。スーツを着ていきました。
今回は約10年ぶりでした。

経済成長の路線を走り始めてからは、初めてになるので、どこが変わって、
どこが変わらないのか、見極めてやろうと、楽しみにしていました。

東京発デリー行きの飛行機は、やや高いのですが、JALを使いました。
以前エアーインディアを使ったとき、24時間ディレイという、トンでも
ない遅れをされ、すべての予定が狂うひどい目にあったので、インドの航
空会社は信用できず、二度と乗らないと決めていたのです（笑）


<u><strong>急ピッチのモータリゼーション化</strong></u>


時刻どおりにデリー空港に降り立ち、迎えの車で市街地へ。
大通りを走り始めてすぐに驚いたのは、自動車の種類が多様になっていたこと。

かつては、「アンバサダー」というカブト虫型の、しかも黒ばかりのイン
ド製しかほとんどありませんでした。小型の「マルチスズキ」（インドと
日本の合弁メーカー）が中流階級の憧れの的になっていた程度。

ところが、いま目の前を流れていく車は、トヨタ、ホンダ、ヒュンダイ
（現代）などで、スマートなデザインの日本や韓国製が多くを占めていま
した。あとで調べてみたら、大きなシェアを占めているのは、スズキやタ
タ（インド製）の小型車でした。

「おおっ、やっとインドも普通の（？）アジアの風景になってきたか」
と妙な感想を抱きました。

かつては保護貿易策をとっていたため、ものすごく高い関税をかけ、輸入
車を事実上シャットアウトしていたのです。それを自由貿易路線に切り替
え、開放経済を指向した結果、外国車の台頭につながったようです。


<u><strong>リキシャはそのままだった</strong></u>



「高度経済成長の象徴が一目でわかって、これだけでも来たかいがあるな」
と思っていたところ、
「ヴィ！ヴィ！ヴィ！」
と聞きなれた、うるさい低音のクラクションが。

目をやると、そこには三輪の「オートリキシャ」の姿がありました。
タクシーとして利用されているこの車は、日本の人力車をモデルに作られ
たそうで、最初は人が引っ張る、文字通りの人力車でしたが、オート化さ
れ、三輪車になりました。

前の席は運転手だけ、後部座席に2人が座れる構造になっており、インド
のどこに行っても見かける車です。小型なので、コマネズミのよ
うに細い路地や大型車の間を縫って走るのですが、不安定なためカーブを
曲がりきれず、横転もよくあるというシロモノです。

インドで、タクシーといえば、オートリキシャなので、旅行者はよくお世
話になり、私も何度乗ったかわからないほど。いきなりの健在ぶりをみて、
「ああ、ここは変わっていないな」
となぜかホッとしました。

「うるさい、臭い、暑い」
の3拍子のインドにあって、まずはリキシャがハエのごとく、クラクショ
ンを鳴らしまくりながら走り回る＜うるさい＞を体感。

「いよいよインドが始まったぞ」
と胸が高鳴ってきました。



（つづく）


]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>アフガン体験記最終回「逃げ帰る」</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000313.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2009:/itoyu//5.313</id>
   
   <published>2009-06-18T15:32:05Z</published>
   <updated>2009-06-18T15:34:29Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;アフガン体験記最終回「逃げ帰る」
</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[<u><strong>逃げ帰る</strong></u>


　ゲリラのキャンプ地から、どうやって再び国境検問所を突破し、パキス
タン側へ戻ってきたのか、実はあまり記憶に残っていません。

赤茶けた大地で死ぬことが恐ろしくなり、撤退を考え始めてから、おそら
く適当な理由をつけて、一目散に逃げ帰ったのだろうと思います。

パキスタンに戻るやいなや、私は荷物を預けてあった安ホテルにこもり、
まったく動けなくなってしまいました。

部屋に閉じこもり、食事らしい食事もせず、しばらく下痢と嘔吐に苦しめ
られました。

別に病気になったわけではありません。
極度の緊張感から開放され、一気に疲れが出たのでしょう。


<u><strong>自分を見つめなおす契機に</strong></u>



この体験は、私にいくつもの｛変化｝をもたらしました。

まずは＜戦争と平和について＞

生まれながらに、平和で豊かな日本に生を受け、それがごく当然であると
思っていましたが、それは単なる偶然に過ぎなかったと、わかったこと。

かつては日本でも戦争が当たり前の時代があり、その積み重ねの上に現代
があり、多くの犠牲者のあとに、自分が生まれてきたこと。

偶然とはいえ、幸福な時代に生まれた自分を素直に喜び、その責任として、
平和をこのまま維持しなければならない＝放っておいたら、いつでも戦争
は起きる、と理解したこと。

そのために、自分に何ができるか、真剣に考え始めました。


<u><strong>生きるとは、戦うこと</strong></u>



いっぽうで、別の考えも浮かぶようになりました。

それは、＜生きるとは、戦うこと＞

アフガニスタンでは、実際に銃を持っての戦いでしたが、そうでなくても、
他の途上国においては、年端もいかない少年たちが明日の糧を求めて、必
死になって生きていました。

街での物売りであったり、ときには物乞いでもありました。敵といっても、
人とは限らず、差別であったり、貧困や飢えであったりしました。

私はそうしたモノとは無縁でした。
にもかかわらず、恵まれて育った自分が、環境に甘え、文句ばかりをいい、
ろくに努力していなかったことを、ひどく恥じるようになりました。

戦うとは、敵と戦うことだけでなく、自分と戦うことでもある、
ともわかりました。

「俺はいま戦っているか？」

その後、不平や不満が心に生じると、折に触れてこうやって、
自分に問いかけるようにしています。

あのときの少年たちの笑顔を思い出しつつ。


<u><strong>（追記）</strong></u>

アフガンではその後も内戦が続き、今でもアメリカから攻撃を受け続けて
います。オバマ次期大統領も、イラクからの撤退は主張していますが、
アフガンにはさらに戦力増強をするようです。アフガンには、いったい
いつになったら、平和が訪れるのでしょう。

]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>アフガン体験記その5＜ベッド脇にも手りゅう弾が＞</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.limited1.jp/itoyu/000308.html" />
   <id>tag:www.limited1.jp,2009:/itoyu//5.308</id>
   
   <published>2009-06-04T06:51:36Z</published>
   <updated>2009-06-04T06:55:43Z</updated>
   
   <summary>&quot;&gt;ベッド脇にも手りゅう弾が
</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.limited1.jp/itoyu/">
      <![CDATA[<u><strong>ベッド脇にも手榴弾が</strong></u>



　キャンプ地は、一般の家を接収していたので、作りは土の壁に、土の床
で、いくつかの部屋に分かれている、といったものでした。

しかし、大きく違うのは、部屋のインテリア。つまり、置いてあるものです。

普通なら、家具やら雑貨などであふれていると思うのですが、
ここでは、銃や弾薬があちこちに無造作に置いてありました。

とくに驚いたのは、壁にぶら下がっている、たくさんの手榴弾！

ベッドの脇にもゴロゴロしているので、
「もし寝ているうちに、寝返りを打って、うっかり触ってしまったら、
爆発するのではないか？」
と怖くなり、おちおち眠ることもできませんでした。

（実際にはピンを抜いてから、ショックを与えないと爆発はしないのだが、
このときはそんなことまで考える余裕がなかった）


<u><strong>人殺ししかできない少年たち</strong></u>


少し慣れて、周りを見渡してみました。

気がついたのは、中学生くらいの男の子が、炊事や洗濯などの家事をさせ
られていたこと。前にも書きましたが、女子どもは危険を避けるため、国
外に逃げているため、少年たちがその代わりをしているのでした。

ただし、少年といえど立派な兵士でもあり、小銃をいつも肩から提げなが
らの仕事です。

皿を井戸で洗っている、あどけない笑顔をみていると、
「生まれてこの方、戦争しか知らないで育つと（79年にソ連がアフガン
侵攻して以来、この時点ですでに12年が過ぎていた）、どういう人格に
なってしまうのだろう？」
という疑問が沸いてきました。

学校へ行ったことは一度もあるはずがなく、読み書きもできません。
ただ、敵を殺す方法だけ教えられて、成長してきたのです。

日本では、誰もが何の疑問をもつこともなく、10代を学校に通って過ご
し、知識や社会について学びます。ろくに勉強をしなくても、日本語の読
み書きや友人を作ったりという経験ができます。親の保護も当たり前のよ
うに受けられ、衣食住が保証されています。

しかし、この少年たちは、自分を守るのは銃だけであり、たとえ戦いが終
わっても、なんの知識も仲間も、手に職もなく、何もすることができない
のです。

そんなことを考え、ボーゼンとなりつつ、平和のありがたさを改めて噛み
しめました。


<u><strong>敵か味方か</strong></u>



「生きて帰れないかもしれない」
と後悔したものの、今さらどうしようもありません。

次第に、どうやって逃げ帰ろうかと探りを入れ始めました。
それはこんなこともあったからです。

ふだんはインドなどと同じく野菜カレーが中心の食事だったのですが、
ある日、食卓にチキン料理が並んでいました。

「（鳥は高いので）今日は豪勢だな」
と思っていたら、私のバッグの財布から、現金が減っていました。
知らないうちに盗まれたようです。

まさか抗議するのも恐ろしく、黙っていましたが、いい気分はしませんで
した。だいたい呼ばれてきたわけでもなく、彼らにとってみたら、＜カモ
がネギをしょってきた＞くらいのものだったでしょう。

敵ではなさそうだが、かといって仲間でもないので、面倒になったら、銃
を向けてくる可能性さえあります。

さっさと離脱しなければ。
突き進むことばかり考えていたのが、初めて撤退を考えるようになりました。
]]>
      
   </content>
</entry>

</feed>

